日本の伝統的な住まいにあった「縁側」。かつてそこは、家族の笑い声や季節の香りが集まる場所だった。本記事では、昭和の実家で過ごした懐かしい縁側の思い出と、時を経て変わりゆく古民家での暮らしのあり方について見つめ直す。
庭と暮らしが溶け合う、昭和の賑やかな縁側
さて、今日は縁側の話をしよう。
今でこそあまり見なくなった縁側だけれど、昭和時代の縁側はそりゃもう大活躍の存在だった。
他の記事でも話した通り、わが実家には祖母が手をかけたそれなりの庭がある。(【関連記事】昭和の庭の記憶|祖母と庭師が守った庭木と、父が受け継いだ家の物語)
それを南向きに拝めるように設置されていたのが、縁側だった。
田舎の十畳二間分の幅に揃えてあったので、中々の長さだ。
昼間の縁側の窓は冬以外は大体開け放たれていて、気軽に庭に降りたり腰かけたりしていた。
蛇や農具、四季の仕事が詰まった「家の顔」
ちなみに縁側の下には昔の農具とかいろんなものが放り込まれている。
時折そこから蛇が這い出てきて、整えられた庭の間をするすると進んで下の石垣に消えていった。
アオダイショウだから放っておくがいいと大人たちは言っていた。

もちろん、縁側を主に使うのは爬虫類ではなく人間だ。半年に一度来てくれる庭職人さんが一服する場所でもあり、祖母を訪ねてきた人が庭を見ながら腰かける所でもある。
柿の木もあったので、時期が来ると軒下に干し柿も吊るされた。
祖父が畑をしていたので他にも様々な野菜が干され、並べられていた。もちろん、祖母の漬ける梅干しも並んでいた。(【関連記事】祖母の梅干しと梅シロップ作り|種の中身「天神様」の注意点も)
夏の風物詩、桃の汁と五右衛門風呂の記憶
親戚の子供たちが泊まりに来る夏休み。
蚊取り線香が置かれ、煙が常にくゆっていた。
昼間、私ら子供は肌着だけにされ、ずらりと並んで縁側に腰かける。
すると大人たちから剥いた桃を1人1個づつ与えられ、足をぶらぶらさせながらむしゃむしゃと食べる。

子供たちは桃に上機嫌だが、一方で汁をこぼして全身べとべとになってしまう。
食べ終わると、そのまま庭に降り並ぶよう指示が出る。
みんな、次に起こることを想像して、ニマニマしながら一列になっていく。
そして予想通り、手加減されつつもホースの水をぶっかけられ、キャアキャアと高い声を上げて喜びの悲鳴を上げた。
その後、灰汁の染みこんだ肌着は即座に引っぺがされて、すぐに洗濯機に放り込まれる。
私たちは祖父が焚いていた五右衛門風呂へ押し込まれ、またぎゃあぎゃあと騒ぎながら体を流した。(【関連記事】五右衛門風呂の話薪で焚いた五右衛門風呂の記憶|昭和の暮らしと祖父の背中)
そうこうしていたら日が暮れて、夕食後に親世代は団扇を片手に縁側に座り、花火で遊ぶ子供らを見守るのだ。
一方で、夜の帳が下りる縁側と、祖母の背中の温もり
夏の陽が高いうちには親しみのある縁側だが、夜には違う表情になる。
縁側の軒には照明がない。隣接の雪見障子の室に照明があればそこから漏れる光が頼りになるけれど、消灯してしまうとそれすらなく、足元も心もとない。
夜にトイレに起きてしまうと、最悪だ。トイレは長い縁側の突き当りにある。ただでさえそこを通るのが怖いのに、目的場所は頼りない裸電球下の汲み取り式トイレだ。さらに怖い。
だから、夜中にトイレに行く時は祖母を起こし同行してもらって用を足し、帰りには中途半端に目が覚めたせいで怖くて泣きだして眠れなくなる。
祖母は私を負ぶって廊下を行き来し、カーテンを開けて夜の庭を見せながら子守唄を歌ってくれた。
温かい背中から見る夜の庭には何故か恐怖を覚えず、逆になんだか落ち着いてきて、いつの間にかうつらうつらしている。
懐かしく優しくい、けれど永遠に失われたモノや思いが積もった縁側の記憶だ。
変わりゆく縁側の景色と、父が交わす家との「対話」
祖父母亡く父が一人で暮らしている古民家での今現在の縁側は、カーテンすら開けられることはあまりない。
そうなると窓も開け放たれない。
父はとにかく蚊を嫌うので(当然ではあるが)、その侵入の可能性を1ミリたりとも広げたくはなく、古く軋んだ家の窓を開けるなどもってのほかだ。
ただでさえ隙間が多い家なのだし、できる限りの防御はしたくなるのが心情だろう。
暮らしを優先する、古民家との付き合い方
とにかく、縁側廊下のカーテンも窓も開けられることなく数年が経ち、網戸はボロボロでその役目を果たせない状態で放置されている。
そうなると、昼間でも縁側は暗い。ちなみに縁側の天井近くの一部は障子張りだ。明り取りの障子張りなんだろうし、実際お洒落で素敵だと思う。
だが同時に経年劣化の影響を受けやすい。穴は開くは風でめくれるわで寒く、住居としては心もとない。
というわけで、近年父は破れた障子部分にアクリル板をはめ込んでいくようになった。
明り取りの用途はそのまま残されつつ密閉を兼ねた、良い選択だと思う。
ちなみに、雪見障子の硝子部分も破損に際してアクリル板に変えている。

結論。古い家とは「修繕」という対話を繰り返しつつ、付き合っていくしかない。
思い出よりも、人の営みの方が優先だろう。
ちなみに、今回話した私の実家は、築100年を超える正真正銘の「古民家」だ。
壁を一枚剥けば、竹を編み砂を塗り固めた先人の知恵が詰まった構造が見えてくる。
縁側という「点」だけでなく、この家全体がどうやって100年もの時を耐え、今なお父の暮らしを支えているのか。その構造や伝統工法についても、機会があればまた別の記事で詳しく綴ってみたいと思う。
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